ここは「文明の十字路」 美園に暮らす  青木義脩

2017.03.24インタビュー暮らす

「美園人」創刊にあたり、旧・浦和市教育委員会で文化財の保護に携わっていた青木義脩さんに、このまちの成り立ちについてお伺いしました。“ニュータウン”という印象の強い「美園」ですが、その意外な歴史とは。

3万年前から人びとの営みが続く「豊かな地」

綾瀬川と見沼に挟まれた「美園」は、人びとが生活するにはちょうど良い高台。ここに気づいた昔の人は本当に偉いと思います。この地での人びとの歴史のはじまりは3万年前。谷は今より深く、動物が現れては水を飲みにきており、早くも長野県地方や栃木県の高原山の黒曜石などが入ってきました。縄文海進後に沼ができるとさらに水生生物が棲み、水鳥も獣も集まり…絶好の漁労狩猟の場となったのです。そばには山林もあり、根菜や木の実がふんだんに揃います。「美園」からは中部山岳や東北地方また東関東の様相を持った土器も出ています。つまり、道があり「交易」があったのです。台地上は、人が住まうには利用しやすく、自然と村が形成されました。弥生時代になると谷にはコメが植えられ、水田地帯となっていきました。約2千年前のことです。

人びとはその集団だけでは生きられない、そこに「交易」が生まれる

その後も「美園」では、農業が生活の基盤でした。弥生時代には栃木県や熊谷市方面の土器もやってきています。これは陸路や水運を利用した「交易」があったことを意味します。人びとは、自分たちだけで完結して生きていくことは無理です。だから必要なものを交換していたのです。
北関東や東北からは最南端、中部から見れば最東端、東関東からは西の端。東西南北に開けた「美園」は、まさに「文明の十字路」ともいえるでしょう。どこからも遠い場所、ではなく、常に大動脈の要衝なのです。

新田開発から発展した、見沼の水運とエコシステム

自然の沼だった見沼は溜池となりましたが、さらにコメを作る必要があり、享保の改革で見沼自体が水田に変わりました。年貢米を江戸に運ぶために水運も整えられ「見沼通船堀」を経て、コメをはじめ薪炭(しんたん)、蔬菜(そさい)、植木、柿渋なども運ばれました。「安行苗木・植木」や「赤山渋」は、よく知られている地域ブランドです。江戸から船が帰る折には、雑貨、砂糖、塩、干した鰯や油粕などの肥料といった生活必需品が運ばれてきました。また、巨大都市江戸の下肥も運ばれ水田の肥料となる。清潔さを維持した江戸は、農業生産にも益したといえます。水運を通じたエコシステムですね。

3つの村が合併してできた「美園村」

1889(明治22)年、市制・町村制施行により地方行政が始まり、野田村、大門村ができました。その後、戸塚村(現在は川口市)と合併し1956(昭和31)年に「美園村」が生まれました。3つの村がいずれも美しい植物園の様相で「安行苗木・植木」「赤山渋」に代表される地域ブランドの産地である…まさに名前の通りの村でした。
1967(昭和42)年の埼玉国体に合わせ、かつての武州鉄道のあとに国道122号のバイパスが建設され、続けて東北自動車道が開通、2002(平成14)年のFIFAワールドカップを機に埼玉高速鉄道で都心とも結ばれました。近年の「交通」の整備により、また「交易」が生まれます。太古の歴史を秘めた「文明の十字路」である「美園」は、今後も美しい発展をしていくことでしょう。そう、その名のごとく。

 

青木 義脩 (あおき ぎしゅう)
1943(昭和18)年栃木県生まれ。明治大学で考古学を専攻後、旧・浦和市教育委員会で文化財保護行政を担当。市史編さんにも携わり、数々の発掘調査を実施、「見沼通船掘」復元を手がけた。緑区歴史の会会長、日本考古学協会等会員。

美園人編集部
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